千種創一歌集『千夜曳獏』
手にとると、信じられないほど軽い。軽すぎて、読者の心がそのままどこか別の世界へ連れて行かれそうになる。
思わず秤に乗せたら、182グラムだった。おととし出た宇都宮敦の歌集『ピクニック』は712グラムだったから、四分の一ほどの重量しかない。それほど軽く、儚い造本の第二歌集である。せんやえいばく、と読む。
でもそれが始まりだった。檸檬水、コップは水の鱗をまとい
以前に僕は第一歌集『砂丘律』の作品を、中東の「砂の文明」が生み出した「砂の韻律」だと書いた。
歌集を開くと、やや意外なことに「砂」の気配は今回それほど感じられない。かわりに主要なモチーフとして繰り返し詠われるのが「水」である。
第I章33首のうち、半数以上の歌に「水」的な景が描かれる。上に引用した巻頭歌の「檸檬水」に始まり、ずぶ濡れのリュック、海、雨の林、ジャム、水槽、メリッサ茶、朝の河、水族館、人工の浜辺、湖、霧、水鳥、雨季の終り、などなど。
永遠ってそんなに偉いやつなのか、駅の奥まで濡らす、煙雨は
この雨は同じ。透けるユダの手の銀貨を濡らした春の小雨と
繰り返し降る雨。「砂」は世界に「渇き」をもたらし、「雨」は湿度を与えていく。
千種の韻律の最大の特徴は句読点と字足らずにあるが、その特徴は「砂」を詠うときにかぎらなかったようだ。
一般に短歌の韻律は、渦に似たうねりの感覚をもたらすのに対して、千種の文体は散文的と言うのか、読み終わったらそのまま流れて消えてしまいそうなあやうさがある。
コップに浮かぶ水滴のように、とどまることなく滑りおちるばかりの短いいのち。
おそらく千種は「砂」にせよ「水」にせよ、流れ去るものを詠わずにはいられないのだろう。消えゆくものを押しとどめようとする、痛ましいまでの意志の力をそこに感じる。
かなしくはないのか水車、何度でもあなたに会って離れて、水車
つゆくさと数年ぶりに口に出す、つゆくさ、恋人の名を呼ぶように
うつろいゆく「水」。変わらないものと、変わるもの。
思えばTwitterで話題となった『砂丘律』の〈アラビアに雪降らぬゆえただ一語 ثلج (サルジュ)と呼ばれる雪も氷も〉も、変化する「水」のかたちを詠んだ歌であった。その向こうに姿をあらわす「日本語」。
中東在住だという作者の目が、「水」を通して見ようとしているもの。それを「あなた」や「国」への「愛」と評するのは、やや性急な読み方だろうか。
砂の線(すじ)いま浮き上がる雨垂れの触れたチェスターコートの肩に
(2020年・青磁社)
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本書評はnote書き下ろしです。
■千種創一『千夜曳獏』(青磁社ウェブサイト)
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