シアター31

歌人・土岐友浩のブログです。

千種創一歌集『千夜曳獏』

 手にとると、信じられないほど軽い。軽すぎて、読者の心がそのままどこか別の世界へ連れて行かれそうになる。
 思わず秤に乗せたら、182グラムだった。おととし出た宇都宮敦の歌集『ピクニック』は712グラムだったから、四分の一ほどの重量しかない。それほど軽く、儚い造本の第二歌集である。せんやえいばく、と読む。

でもそれが始まりだった。檸檬水、コップは水の鱗をまとい

 以前に僕は第一歌集『砂丘律』の作品を、中東の「砂の文明」が生み出した「砂の韻律」だと書いた。
 歌集を開くと、やや意外なことに「砂」の気配は今回それほど感じられない。かわりに主要なモチーフとして繰り返し詠われるのが「水」である。
 第I章33首のうち、半数以上の歌に「水」的な景が描かれる。上に引用した巻頭歌の「檸檬水」に始まり、ずぶ濡れのリュック、海、雨の林、ジャム、水槽、メリッサ茶、朝の河、水族館、人工の浜辺、湖、霧、水鳥、雨季の終り、などなど。

永遠ってそんなに偉いやつなのか、駅の奥まで濡らす、煙雨は
この雨は同じ。透けるユダの手の銀貨を濡らした春の小雨と

 繰り返し降る雨。「砂」は世界に「渇き」をもたらし、「雨」は湿度を与えていく。
 千種の韻律の最大の特徴は句読点と字足らずにあるが、その特徴は「砂」を詠うときにかぎらなかったようだ。
 一般に短歌の韻律は、渦に似たうねりの感覚をもたらすのに対して、千種の文体は散文的と言うのか、読み終わったらそのまま流れて消えてしまいそうなあやうさがある。
 コップに浮かぶ水滴のように、とどまることなく滑りおちるばかりの短いいのち。
 おそらく千種は「砂」にせよ「水」にせよ、流れ去るものを詠わずにはいられないのだろう。消えゆくものを押しとどめようとする、痛ましいまでの意志の力をそこに感じる。

かなしくはないのか水車、何度でもあなたに会って離れて、水車
つゆくさと数年ぶりに口に出す、つゆくさ、恋人の名を呼ぶように


 うつろいゆく「水」。変わらないものと、変わるもの。
 思えばTwitterで話題となった『砂丘律』の〈アラビアに雪降らぬゆえただ一語 ثلج (サルジュ)と呼ばれる雪も氷も〉も、変化する「水」のかたちを詠んだ歌であった。その向こうに姿をあらわす「日本語」。
 中東在住だという作者の目が、「水」を通して見ようとしているもの。それを「あなた」や「国」への「愛」と評するのは、やや性急な読み方だろうか。

砂の線(すじ)いま浮き上がる雨垂れの触れたチェスターコートの肩に

(2020年・青磁社)

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本書評はnote書き下ろしです。

■千種創一『千夜曳獏』(青磁社ウェブサイト)
http://www3.osk.3web.ne.jp/~seijisya/

吉田恭大歌集『光と私語』

 学生短歌会七不思議のひとつに、早稲田大学短歌会に演劇人が多いのはなぜか、というものがある。特に吉田は短歌と演劇両方に打ち込んでいたイメージで、会うとたいてい忙しく、何かの稽古に励んでいた。

六畳の白い部屋。その床面にあなたは水平に横たわる。

「ト」という連作の第一首。恋人が眠っているところのようだけれど、こう書かれると、プライヴェートな空間がそのまま舞台の一場面に生まれ変わる。ト書きの文体が醸し出す、不思議な緊張感。

枚数を数えて拭いてゆく窓も尽きて明るい屋上にいる
一月は暦の中にあればいい 手紙を出したローソンで待つ


 吉田の手にかかれば、東京のあらゆる場所が舞台に変貌する。そして読者は、それを楽しむ「観客」の一人となる。読者を「短歌の読者」という立ち位置から解放させる、これはそういう歌集だと思う。
 劇場としての、現代短歌。それを演出するのが、その造本であり、そのレイアウトだ。
 本歌集は詩歌の表現可能性を拡張し続ける制作集団「いぬのせなか座」の全面的なプロデュースによって生まれた。
 たとえば二〇三~二七三ページの第3部では、見開きの左側に、まるでボールが飛び跳ねるように大小さまざまな「円」が配置されている。上田三四二は、かつて短歌を「渦」にたとえたが、この記号も一首の空間の奥行きや連作の滞空時間、そのようなものを示しているだろう。この歌集全体が、あるいは演劇的な視点から捉えた短歌論なのかもしれない。

人々がみんな帽子や手を振って見送るようなものに乗りたい

 吉田は学生短歌会を卒業した後も、ドラマトゥルク、舞台製作者として活躍している。疲れた素振りは見せず、いつも楽しそうだ。ごく個人的な話なのだけれど、この歌を読むと必ず、舞台でいい笑顔をしていた吉田を思い出してしまう。
 私家版なので、今のところ「いぬのせなか座」のサイトで注文して数日待つしか入手方法はない。寺山修司の影響、斉藤斎藤や千種創一の作品との親和性など、現代短歌の重要な課題をいくつも含んだ一冊なのは間違いないけれど、まずはその前に、演劇そのもののような臨場感あふれる読書体験を楽しんでいただきたい。

 演劇人や詩人、様々な「観客」によってこの歌集が読み解かれることを願う。

待つ犬のまわりで何か待ちながら、わたしたち、あなたたち、拍手を

(いぬのせなか座・2019年)

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「現代短歌」2019年8月号に寄稿した書評です。2019年はすごい歌集がたくさん出ましたが造本・装幀は本書が出色だったのではないでしょうか。

■吉田恭大『光と私語』(いぬのせなか座ショッピングサイト)
https://inunosenakaza.stores.jp/items/5c1da4862a28624c2c4d68ca

奥村晃作歌集『ビビッと動く』

 あとがきによれば、満八十歳を機に上梓されたという作者の第十五歌集である。二〇一四年から二〇一六年にかけて詠まれた三二〇首が収められている。

鳥取の松葉蟹の子生きながら箱詰めに五尾送られて来ぬ

 巻頭の連作「若松葉蟹」の第一首。二句目と四句目の最後に助詞の「が」が省略され、一首がぴったり定型に収まっている。こうして助詞を抜くことで韻律が緊密になり、箱にぎっしりと詰まった活け蟹の姿がおのずと浮かび上がってくる。
 そして、その次の歌。

まだ動く若松葉蟹まな板にのせてゴシゴシ水洗いする

 この「ゴシゴシ」にやられてしまう。日常的な、本当にごく日常的な表現なのに、奥村さんが使うと「ゴシゴシ」からなんとも言えないエネルギーが生まれてくるのはなぜだろう。

一匹の死魚を貰いて一芸を見せるバンドウイルカを目守(まも)る

 イルカショーの光景がよみがえる。トレーナーが与えるあの小さな魚。ここに「死魚」という言葉を持ってくるのが非凡だろう。そう言われてはじめて僕たちは、水族館の魚とエサの魚とを、無意識のうちに何か別のものとして区別していたと気づかされる。

餌やりは禁止となりて知床の遊覧船にユリカモメ見ず

 鳥インフルエンザの流行に伴い、餌やりが禁止になったのだろうか。遊覧船に乗って、知床の海にかつて飛び交っていたはずのユリカモメの姿を思い浮かべる作者。松葉蟹、バンドウイルカ、ユリカモメ。「いのち」を捉えるその目はするどい。

 八十歳を間近にして作者は北海道から大阪や京都、鹿児島まで全国各地を旅しており、その行動力には頭が下がる。美術展やコンサートにも日々精力的に足を運んでいるのだが、本歌集では「死刑囚絵画展」に取材した「幽閉の森」と「集会」のふたつの連作が圧巻である。

絵が我を惹き付けて確定死刑囚風間博子を知るべくなりぬ
幽閉の森に光の差す朝を描ける風間博子のあわれ
十五年戦い続け一旦は負けし博子を救わねばならぬ


 ある事件の共犯者として死刑が確定した風間氏の作品に深く感動し、再審請求への思いを短歌を通して訴える。
 奥村さんの短歌は「ただごと歌」と言われ、日常詠が注目されがちだけれど、このような社会に鋭く目を向けた批評的な歌があることにも注目していきたい。

六花書林・2016年)

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「現代短歌」2016年10月号に寄稿した書評です。奥村さんの代名詞でもあった「ただごと歌」は、近年「気付きの歌」にアップデートされました。進化を続けるオクムラ短歌に目が離せません。

奥村晃作『ビビッと動く』(六花書林刊行書籍案内)
http://rikkasyorin.com/syuppan2015-16.html

藪内亮輔歌集『海蛇と珊瑚』


 二〇一二年に「花と雨」五十首で角川短歌賞を受賞した作者の第一歌集である。

傘をさす一瞬ひとはうつむいて雪にあかるき街へいでゆく

 非常に抽象的な歌だ。そしてそこに、藪内の資質がよく現れている。「ひと」とは誰なのか。親密な人物か他人か、男性か女性か。僕たちはつい歌に具体を求めてしまうけれど、ここに書かれているのは言わばシルエットのような「ひと」の動きであり、藪内はその抽象性に美を見出す。
 歌集には「数式」や「方程式」の語も登場する。藪内は数字を代数に置き換えるようにして世界を抽象化し、展開する。

墓地に立つ断面あまたそのひとつにましろき蝶の翅がとまりつ

 この「断面」の語もまた、数学的な世界観を想起させる。世界が垣間見せる「死」の断面。その数々。一匹の蝶は、たとえるなら微分係数のような存在だろうか。どれほどの「死」を前にしようとも、「死」の正体をつかみ、定義することは、ついにできない。
「花と雨」は受賞時からその美意識と圧倒的な構成力が絶賛されたが、連作を読み返したとき僕の脳裡に浮かんだのは、不可知の「死」を恐れる無力で孤独な青年の姿に他ならなかった。

片翅に「死ね」片翅に「死ぬ」と書きはなつた蝶がどこまでも飛ぶ

 藪内が「死」を詠うとき、その暴力性に言及しないわけにはいかない。本誌(「現代短歌」二〇一八年十二月号)の拙文「暴力考」で論じたように、暴力とは本質的に強者と弱者の力の差に由来し、強者が弱者に行使する暴力と、弱者からの反撃とに二分される。
 歌集には連作「しなせる」など自己のもつ暴力性を批評的に表現した作品も多い。だが僕が注目したのは後者、つまり、より強大な力に対する抵抗としての「暴力」である。
 それは「社会」でも「世界」でもない。もっと普遍的で、絶対的な権力者――すなわち「死」ではないだろうか。僕たちは誰一人として「死」に逆らうことはできない。藪内は詩(……私)の果てにある「死」を恐れるがゆえに、「死」(……詩)を愛する。その戦いを、まったく勝ち目がないとあきらめることは、たやすい。

 個人的なことをひとつだけ記せば、僕にとって藪内は、京大短歌会や神楽岡歌会で短い間だが一緒に歌会をした仲間だった。藪内の歌集が出るという噂を最初に聞いてから、本当に長い時間が経った。こうして完成した歌集を読み、藪内は、何年も、たった一人で戦っていたのだ――と思いを馳せるばかりである。

ゆきやめば傘をばさりと仕舞ふのみ死がくれば死と刺し違ふのみ

角川書店・2018年)

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「現代短歌」2019年4月号に寄稿した書評です。微分積分数学的帰納法…と昔の知識を引っ張り出しながら書きました。他にも、いろんな切り口で語りたくなる歌集です。

■藪内亮輔『海蛇と珊瑚』
https://www.kadokawa.co.jp/product/301607000286/

山下洋歌集『屋根にのぼる』


あしたから生まれ変わるという少女 そんな焦らんかてええねんで

 生徒に「焦らんかてええ」と声をかけられる先生は、いま、どれくらいいるのだろう。生徒指導の目的が反省の言葉を引き出すことだけならば、「生まれ変わります」と言われたとき、多くの先生は「そうか。よし、がんばれよ」とでも答えてしまうのではないか。
 しかし山下さんは殊勝な言葉の裏に「焦り」を見出し、いたわりの声をかける。「そんな焦らんかてええねんで」と。

〈スピード〉を〈偏差値〉に読み換えてみよ事故は他業種のことにはあらず
 周囲に遅れをとってはいけないというプレッシャーは、ほとんど強迫観念のように思春期の子どもを焦らせている。そのあやうさを山下さんはよく知っているから、成績を伸ばした生徒を手放しで喜ぶことはしない。
 焦ってスピードを出しすぎてはいないか。山下さんは、そのように生徒を見ている先生なのだ。

『屋根にのぼる』は、『たこやき』『オリオンの横顔』に続く山下さんの十年ぶりとなる第三歌集である。タイトルは、結社誌「塔」の校正や発送作業を行っていた古賀泰子さんのご自宅で、屋根にのぼって柘榴をとった在りし日の思い出に由来する。
 第Ⅰ章と第Ⅲ章は月詠を中心とした小連作、第Ⅱ章は「塔」二〇〇八年の「作品連載」に掲載された六つの連作からなる。第Ⅱ章の連作「忘れ水」から、五首ほど引用してみたい。

雛の肌火影に白し四月にはふたりになってしまうこの家
跨線橋ふいにあらわれ早春の単線軌条たちまちに越ゆ

 子どもがもうすぐ、家を出る。そんな春の落ち着かない日々を反映したのか、一連には様々に流れる「時間」が描かれる。
 上の二首は、初句の助詞抜きや二句切れなど、歌の構造はよく似ているのに、そこに流れる時間の感覚は対照的だ。一首目は「雛」「肌」「火影」とハ行の重なりが、ほの暗い静謐さを感じさせる。二首目は「跨線橋」「単線軌条」という漢語のリズムが、明るく伸びやかなスピード感をもたらしている。

『アデン・アラビア』冒頭がなぜ蘇る五十五歳の誕生日来て
 小説『アデン・アラビア』の冒頭は「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」というものだ。二十歳といえば、山下さんは京大短歌会で工藤大悟らと歌作に励んでいた頃だろうか。人生の「美しさ」をめぐる問いが浮かび上がる。

落花掃く箒の音が朝の街のどこからかするいつまでもする
 落花は過ぎ去った時間の象徴だが、その儚さが引き伸ばされていくような、不思議な感覚が詠まれている。
 そして、連作の最後を飾る、次の歌。

いつの春いずこの野辺か菜の花のさなかに光る忘れ水見き
 記憶の風景を流れる「忘れ水」の美しさは、どうだろう。いつ、どこで見た光景か思い出せないからこそ、いっそうあざやかに輝き続ける。心に残しておきたい歌だ、と思う。

 歌集を読んでいくと印象に残るのが、口語というか、関西弁混じりの、ゆったりとした文体である。軽やかで、気負いがないようで、しかし定型を意識して言葉が選ばれていることに注目したい。
 ここまで引いた歌を読み返すと「そんな焦らん/かてええねんで」「ふたりになって/しまうこの家」というように、句またがりをしながら一首がきっちり定型に収まっていることがわかる。
 もっとすごいアクロバットのような句またがりの歌もある。

「成長しなくては」などと思わなくてもいいんだよ 椿が赤い
 同じように句またがりに着目すれば「成長し/なくてはなどと/思わなく/てもいいんだよ/椿が赤い」と読むことができる。口語が定型のリズムに乗って、心地よく走っていく。
 口語短歌の句またがりといえば若手歌人の作風というイメージがあるかもしれないけれど、山下さんはすでに多くの作品で、それを試みていたのだと気づく。 

 来た道を振り返るとき、僕たちは「歩き続けてきた」とも言うし、「走り続けてきた」と言いたくなるときもある。短歌でたとえれば、身辺詠は歩くこと、新しい表現への挑戦が走ることだろうか。山下さんの歌集は、なによりもまず着実な歩みの積み重ねであり、そしてそこには、走ることで培われた力の裏打ちがある。
 その道のりは、言うまでもなく「塔」の歌友と伴走してきた、およそ四十年の時間そのものに他ならない。彼らの手によって、これから本歌集の優れた批評が書かれることを楽しみに待ちたい。

実を採ると屋根に登りし日のありき かの柘榴にも花咲く頃ぞ

青磁社・2017年)

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三年前、結社誌「塔」に書かせていただいた書評です。結社とともに歩んだ時間の豊かさがしのばれます。僕もどこかに入っていたら、実りある結社ライフが送れていたのでしょうか…(問題発言)。

■山下洋『屋根にのぼる』(青磁社通信)
http://www3.osk.3web.ne.jp/~seijisya/seijisya_tsuushin/seijisya_tsuushin_030.html#yaneninoboru

萩原慎一郎歌集『滑走路』

プロ野球選手になれず月の夜に歌人になりたいと思う窓辺に
選歌され、撃ち落とされてしまいたる歌という鳥 それでも放つ

 萩原さんは一九八四年生まれで、ちょうど本誌前月号(「現代短歌」2018年4月号)で取り上げた『ナイトフライト』の伊波真人と同い年にあたる。

『滑走路』と『ナイトフライト』。

 よく似た名前をもつ二冊の歌集が、昨年(2017年)のほぼ同時期に刊行された偶然を思う。
 萩原さんが短歌を始めたのは、十七歳の秋。受験勉強もよそに公募の短歌大会や新聞歌壇などに投稿を続け、ひたむきに短歌に打ち込んだという。あとがきの「十五年間ですさまじい数の短歌を詠んで、投稿してきた。」という一文は、さりげないけれど迫力がある。なにしろ自分で「すさまじい」と書くのだから。

かっこいいところをきみにみせたくて雪道をゆく掲載誌手に

 この歌は、すごい。本当にすごい。
 少なくとも僕は、とても萩原さんのように、自分の歌を「かっこいい」と誇ることなんてできない。
 短歌は、およそ生活の糧にはならないものだ。歌人はその身も蓋もない現実と向き合うほど、短歌に屈託を抱えて生きざるを得ない。だからこそ萩原さんの「歌人になりたい」というシンプルな言葉に、妄執にとらわれた多くの歌人はたじろいでしまうのではないだろうか。
 萩原さんの歌には、一切の屈託も、虚栄もない。その姿はほとんど崇高でさえある。掲出歌を読んだとき、僕は自分が「雪道」に立ちすくむような思いがした。

非正規の友よ、負けるな ぼくはただ書類の整理ばかりしている
消しゴムが丸くなるごと苦労してきっと優しくなってゆくのだ

『滑走路』は非正規労働者の若者の声をうたった歌集として、すでに注目されている。その声が痛ましくも優しく、――極端なまでに優しく感じられるのは、挫折を繰り返しながら立ち上がってきた、まっすぐな言葉が読者の胸を打つからだろう。

ぼくたちは他者を完全否定する権利などなく ナイフで刺すな
ぼくたちはほのおを抱いて生きている 誰かのためのほのおであれよ

 萩原さんは本歌集の入稿を終えた後、本の完成を待たずして急逝された。享年三十二歳。本歌集に解説を寄せた三枝昂之は角川「短歌」一月号で〈早過ぎた takeoff だよ冬枯れの滑走路には夕日が残る〉という挽歌を発表している。

KADOKAWA・2017年)

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「現代短歌」2018年5月号に寄稿した書評です。ひさしぶりに読み返したら歌集の冒頭近くにあった、こんな歌に心を動かされました。先が見えない「いま」だからこそ。

今日願い明日も願いあさっても願い未来は変わってゆくさ  荻原慎一

■萩原慎一郎『滑走路』
https://www.kadokawa.co.jp/product/301705000794/

伊波真人歌集『ナイトフライト』


 無機質で静謐な印象を与える無人のガソリンスタンド。とても小さな月。画面の右端には、わずかに夜の森が息づいている。
 永井博の描き下ろしだという本歌集の装画は、伊波の叙情の質をこれ以上ないほど的確に表現しているように思う。

夜の底映したような静けさをたたえて冬のプールは眠る
この星がショーケースなら電柱は街を留めおく標本の針
君からの留守番電話きくときに受話器は地軸のかたむきをもつ


 第五十九回角川短歌賞を受賞した「冬の星図」の一連から。
 一首目は歌集の巻頭歌で、作者を含めて人の気配がいっさいしないことにまず驚く。冬の夜のプールは、夏の日中のにぎわいから、もっとも遠く離れた存在だ。そういえば装画のガソリンスタンドにも、人間はおろか、車の影さえどこにもなかった。おそらく作者は人間など不在でも、そこに叙情があることをはっきり確信しているのだろう。
 二首目、電柱はしばしば「街」の美観を削ぐ邪魔者のように見なされるが、それは人間の主観にすぎない。街という「ショーケース」から人間を追い出してみれば、電柱は硬質な美しさを留める「針」に生まれ変わる。
 三首目、留守番電話もまた「君」の不在を印象づける。「地軸」は魅力的な見立てだけれど、「かたむきをもつ」はどこか謎めいた表現だ。手に持っているはずの受話器が、宙に浮いているようでもある。

空の下キーホルダーの人形がとれたチェーンが揺れつづけてる
三脚は新種のけもの芝のうえ三つのあしを下ろしゆくとき
その場所はあたたかいかい 社員用通用口にたくさんの猫


 人間が去ったあとに生まれる叙情。普通なら、そこに宿るのは孤独やさびしさ、そういう感情ではないだろうか。しかし、ここに挙げた三首はどうだろう。たとえ人形がいなくなろうとも、チェーンはチェーン自身の存在を刻み続けている。カメラは「けもの」のように世界のなにかを捕まえようとしている。そして、人間なら通りすぎるだけの場所にあつまる猫たち。
 不在の世界に叙情を見出す作者のまなざしは、あるときはとても熱く、あるときは温かい。

橋の名の駅をいくつもつなげては水を夢見る東京メトロ
川辺にも星座表にも来る春をはぐれて僕は風を見ている


「現代歌人シリーズ」の一冊として刊行された本歌集は、発売から一ヶ月ほどで増刷が決まったという。ここで詳しく論じる余裕はないけれど、作者の「不在の叙情」を支えているのは、定型というポップ・ソングへの強い信頼感だろう。そしてその感覚は、伊波ら口語短歌の新しい世代に共通する、ひとつの特徴でもあるようだ。

(書肆侃侃房・2017年)

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「現代短歌」2018年4月号に寄稿した書評です。下のリンク先に書影が載っていますのでぜひ。何度見ても引き込まれます。

■伊波真人『ナイトフライト』
http://www.kankanbou.com/books/tanka/gendai/0293naitohuraito